2017年12月22日第7回 フリークライマー 野口啓代さん

フリークライマー 野口啓代さん コラム。ワールドカップでの優勝でプロの道に進んだ野口啓代さんにインタビューしました

The Game Changer

試合の流れを一気に変える人--ゲームチェンジャー。
物事の流れを根底から覆し、人々の暮らしや社会、企業活動などに変革をもたらす……。
歴史のダイナミズムとは、そのようなゲームチェンジャーたちによる挑戦の結果によるものかもしれません。
現代社会を揺り動かすゲームチェンジャーとはどのような人たちなのか。
変革をもたらす視点、独自の手法、ゴール設定、モチベーションをいかに維持するか等々、変革に挑戦した者だけが語ることができる物語を紹介します。

ワールドカップでの優勝でプロの道へ
2020年東京オリンピックに照準

2020年の東京オリンピックで、五輪追加種目にスポーツクライミングが採用された。これは「リード」、「ボルダリング」、「スピード」の3つの種目からなる。いずれも人工の壁に取り付けられたホールドと呼ばれる部分に両手両足、体全体を使い登っていく競技。体力だけでなく、どのホールドをつかむのか、どのルートで登っていくかなど、緻密なプランと瞬間的な判断力が求められる、“頭も使う”スポーツだ。もともとは岩場を特別な装備なしで登るフリークライムを、競技として整備したのがスポーツクライミング。1980年代から欧米で人気が高まり、1991年に第1回世界選手権が開かれた比較的新しいスポーツだ。日本国内の競技人口は、公益社団法人日本山岳・スポーツクライミング協会(JMSCA)の発表では、2017年現在、競技者・愛好者を合わせて推定60万人。そのスポーツクライミングで2020年を控えて日本女子の中心選手として期待がかかるのが野口啓代さん。「2020年がターゲット」と東京オリンピックでの表彰台に照準を定めてトレーニングに励んでいる。

フリークライミングのプロの野口啓代さん。 (c) ONE bouldering

きっかけはゲームセンターの壁登り

――近年、趣味でフリークライミングを始める人が増えています。野口さんが最初にフリークライミングに触れたのはグアム島のゲームセンターだったとか。

野口 小学校5年生の夏に家族旅行でグアムに行った時に、たまたま入ったゲームセンターにフリークライミングの壁があったんです。木の形をした壁で、ロープを伝ってその壁を登っていくものでした。その時、生まれて初めてフリークライミングというものを経験しました。本当に偶然だったのですが、フリークライミングは楽しいと感じました。

フリークライマーの野口啓代さん。フリークライミングに初めて触れた日のことを語ってくれました。

 その後、都内のジムに連れて行ってもらって楽しんでいましたが、つくば市にフリークライミングのジムができたので、週1回、父と一緒に通うようになりました。父もフリークライミングが楽しいと感じたようです。でもその頃は、今のようにフリークライミングばっかり、というわけではありませんでした。

――小さい頃からスポーツは得意だったのですか。

野口 実家が牧場を経営していたので、牛の背中に乗ったり、木登りをしたりと、高いところは好きでしたね。それがフリークライミングを好きになる背景だったのかもしれません。
 つくばのジムには週1回通う程度でしたが、小学6年生の時に出た日本ユースの大会で優勝してしまいました。でもその時は、もっと練習しようとか思うことはなかったのです。あくまでも父にジムに連れて行ってもらって、フリークライミングを楽しむことだけ考えていましたから。
 中学では陸上部で、100m走と走り幅跳びに取り組んでいました。大会が多くて忙しかったですね。陸上競技を選んだのは、球技がからっきしダメだったことと、団体競技だとチームのみんなに迷惑をかけることがあるかもしれない、と考えたから。道具を使うスポーツは向いてなかったですね。フリークライミングは身体ひとつあればいいので、私向きなのでしょうね。
 大会に出れば、自分が思っている以上にパフォーマンスを発揮できて上位入賞することもあって、それが嬉しくて、フリークライミングをやめようとは思うこともなく、がんばってこられたのかな、とは思います。

世界選手権3位でプロの道を決意

――いつプロになろうと決めたのですか。

野口 日本代表としてワールドカップに出るようになり、そうした舞台では、日本代表として予選落ちはできないなとか、ビリじゃかっこ悪いなという感覚はありました。海外の選手と競い合うようになり、もっと練習したらもっと上を目指せるのではないかと考えるようになり、トレーニングに打ち込むようになりました。
 実は、そんなときでもプロのフリークライマーになろうとは思わなかったんです。周囲を見ると、プロとして生活している人はほとんどいませんでした。世界一になったといっても、それで食べていけるような環境ではなかったんです。
 ターニングポイントは、高校1年の時に初めて出場した世界選手権で3位になったことですね。上位に入ったことで、その後のトレーニングの回数や力の入れ方が変わりました。
 それでもまだ、自分の進路を決めるときは迷いました。大学に行かずにプロになるか、それとも大学進学して競技を続けていくか。父はプロになってもやっていけると考えていましたが、母はともかく大学に入ってから考えればいいと言っていました。大学に行かずにプロでやっていける保証はまったくなかったし、プロになって急成長するだけの潜在能力があるかどうかも自信がなかったので悩みました。

フリークライミングのプロの野口啓代さん。プロになってからの変化について語ってもらいました。

 それで大学に入りましたが、思いはフリークライミング一本でやっていきたいというところにあったんでしょう。大学1年の時に、ボルダリング・ワールドカップ・フランス大会で優勝できたのです。それまでずっと2位ばかりで、次こそは優勝と気合も入っていたので、それがうまく結果につながったのだと思います。
 優勝して確信しました。「自分が進むべきはこっちの道だ」と。それで帰国してすぐに退学届けを出しました。

――プロになって自分自身に変化はありましたか。

野口 ワールドカップで優勝してプロになる決心がつきました。それまでは、日本代表として予選落ちはできないなどと考えていましたが、プロになれば常に上位をキープしなければなりません。スポンサーがつけば、そのスポンサーのためにも上位の成績でいなければならない。自分のクライミングに対する責任感が強くなりました。
 それまで遠征費は両親がサポートしてくれていました。プロになって上位入賞すれば賞金がもらえるようになるので、そこから遠征費などをまかなうことになります。もっとも、この世界で競技生活を続けていくのはたいへんです。海外遠征する選手の多くはアルバイトで資金をためて試合に出場しています。ワールドカップなどで優勝しても、賞金は3000~4000ユーロほど(日本円で約40~50万円)。賞金だけで転戦の費用やトレーニングに必要な資金、生活費をまかなっていくことは難しいですね。

 それでも、自分が一番楽しいことをして稼げるというのは恵まれていると思います。ストレスもまったくないんです(笑)。プロになる前は、国内で常に上位にいてもメディアに取り上げられることもありませんでしたし。それがプロになって少しずつ周りからも評価されるようになって、認められていったのが嬉しいですね。

フリークライミングのプロの野口啓代さん。プロになってからの変化について語ってもらいました。 (c) ONE bouldering

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