2016年9月29日第2回 株式会社ベンチャーウイスキー 社長 肥土伊知郎氏

肥土伊知郎top

The Game Changer

試合の流れを一気に変える人--ゲームチェンジャー。
物事の流れを根底から覆し、人々の暮らしや社会、企業活動などに変革をもたらす……。
歴史のダイナミズムとは、そのようなゲームチェンジャーたちによる挑戦の結果によるものかもしれません。
現代社会を揺り動かすゲームチェンジャーとはどのような人たちなのか。
変革をもたらす視点、独自の手法、ゴール設定、モチベーションをいかに維持するか等々、変革に挑戦した者だけが語ることができる物語を紹介します。

秩父に蒸溜所を設立しウイスキー造りに挑戦

埼玉県秩父市の中心街から車で20分ほどの山間部に、ベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所がある。社長の肥土伊知郎氏は造り酒屋の出身で、サントリーに勤務した経験を持つが「最初は酒造りを継ぐ気はなかった」と笑顔で話す。それが一転、ウイスキー造りの道に進んだのは、実家の経営破綻という苦境だった。「実家に残された貴重なウイスキー原酒を廃棄するのは忍びなかった」ことからスタート。それは「ウイスキー造りは一代の仕事ではない」から。現在、肥土氏が造る「イチローズ・モルト」はなかなか手に入らないほど好評だ。

「最初は酒造りを継ぐ気はなかった」から一転

--肥土さんがウイスキー造りを始めることになった経緯についてうかがいます。生まれたのは秩父の造り酒屋ですね。

肥土 私の生家は江戸時代から続く造り酒屋で、祖父の代に東亜酒造という会社になりました。小さいころは酒蔵で遊んだり、仕込みの時期には蔵人が造る酒米の硬さをみるための「ひねり餅」を焼いて食べさせてもらったりしていました。しかし自分がいずれ酒蔵を継ぐという意識はなかったですね。  大学は醸造学科ですが、これも浪人するのが嫌だったので、合格したから行こうという程度でした。心のどこかで家業のことは意識していましたが、大学生になっても、「後継者だから」とは思っていませんでした。  就職したのはサントリーです。父と佐治敬三さんが知り合いだったという縁で。ものづくりに興味があったので山崎蒸溜所に行きたかったのですが、当時のサントリーは、蒸溜所に配属されるためには大学院を修了していなければならなかったので希望は叶えられず、もう一度面接を受けて営業部門に入ることができました。  最初は販売企画の仕事でしたが、先輩の営業マンに「お前の企画は机上の空論だ」と言われて、営業の現場に出ることを熱望して異動しました。

--サントリーに入社したのは、いずれ実家を継ぐことを決めていたからなのでしょうか。

肥土 最初から実家を継ぐための修業でサントリーに入ったわけではないんです。父と話をして、サントリーに“骨を埋める”覚悟でした。そのころ、父が東京に小料理屋を3軒出していたりして、むしろ家業を継ぐのはしんどいなとさえ思っていたくらいです。  それが東亜酒造の経営が行き詰まり、父が「戻ってこないか」というので、なんとか立て直せるかなとちょっと甘い考えで戻ったのです。しかし、会社はもう立て直すどころではありませんでした。一度落ちた取引先からの信用も回復できず、結局、できたばかりの民事再生法適用を申請しました。  会社が進むべき道は、自主再建するかスポンサー企業を見つけるかの2つでしたが、早々に自主再建を断念し、他の酒造会社に譲渡することになりました。それで東亜酒造という名前も残るし、従業員の雇用も確保できる。しかし譲渡が完了するまでは、非常につらい時間でした。  その時の経験が今に生きています。東亜酒造を人手に渡す前にどん底を経験し、そこから抜け出せたのだから多少つらいことがあっても乗り越えられる、と思うのです。

1人で会社をスタートしバー回りでウイスキーを勉強

--ベンチャーウイスキー設立はすんなりと進んだのでしょうか。

肥土 東亜酒造は羽生蒸溜所(埼玉県)でウイスキーも造っていたので、その原酒の樽が大量に残っていました。しかし、経営を引き継いだ会社は原酒を引き取ってくれませんでした。他の会社にも話をもっていったのですが、当時はウイスキー全体の人気が落ちていて、大企業ですら在庫を減らさなければならない状況だったので、それも断られました。  法律では、ウイスキーの原酒を預かってもらうには、ウイスキー製造の免許を持つ会社の倉庫でなければならないという決まりがあります。原酒を蒸溜した場所から移動させるだけで酒税がかかるので、保税倉庫のような場所が必要になるんです。  八方手を尽くしましたが、ウイスキーを製造している会社が少ない。あきらめきれずにいたところ、福島県郡山市に本社がある笹の川酒造の山口哲蔵社長が「ウチで預かってあげる」と。祖父が造り始めたウイスキーはその時で20年近い物になっていました。山口社長からは「原酒を捨てるというのは業界の損失」と言われました。私も「20歳になった羽生蒸溜所の子供たちを世に送り出すことが使命だ」と思い、本格的にウイスキー事業を始めることにしたのです。そして残った原酒を売るだけではいずれ何もなくなってしまうので、蒸溜所を作って自ら製造しなければならないと決意しました。

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