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2016年9月5日第1回 覚醒のとき - 勝利へのターニングポイント
古賀稔彦(柔道)

“日本のために”から“自分のために”

 1992年バルセロナ五輪柔道71キロ級金メダリストの古賀稔彦が初めてオリンピックに出場したのは88年のソウル五輪である。
 20歳の古賀は伝家の宝刀・背負い投げを武器に金メダルの最有力候補と見られていた。
「昭和の三四郎」という呼び名が、期待の大きさを物語っていた。
 ところが、である。オリンピックの畳には魔物が棲んでいた。3回戦で旧ソ連の伏兵ゲオルギ・テナーゼに組ませてもらえず、早々に敗退した。テナーゼは古賀の柔道を研究しきっていた。奥襟をつかんで動きを止め、古賀の背負いを封じたのだ。
 精神面の弱さも露呈した。後に古賀は、こう語った。
「あの時は試合前の練習も言われるままにただこなしているという感じで、気持ちがフワフワしているような状態でした。要するに自分を見失っていたんです。
 それにプレッシャーを背負い過ぎて、マイナスの方からものを見ていたような気がする。たとえば“日本のために勝たないといけない”といった具合に。これじゃいけない、とハッと我に返ったのは、ソウルが終わってからでした」

柔道家 古賀

写真: 日刊スポーツ/アフロ

 ソウル五輪後、古賀はどう変わったのか。
「練習でも、あくまでも自分自身を中心に据えて行うようになりました。“日本のために”から“自分のために”と考え方を切り換えたんです。そうすれば、つらい合宿も苦にならない。時には練習後、酒を飲んだりして気分をリフレッシュすることも覚えました」
 4年後、バルセロナ五輪。またしても古賀に試練が襲いかかる。柔道の私塾・講道学舎の後輩である吉田秀彦との乱取り中に左ヒザを痛めてしまったのである。
「亜脱臼の状態で、ヒザのまわりのじん帯が伸び切ってしまい、歩くことすらできませんでした。加えてそこが炎症を起こしてしまい、その時点で出場しても、まともな柔道はできないと覚悟しました」
 ここで4年前の苦い経験が生きた。周囲の雑音に惑わされず、できることに集中しよう。ジタバタしても、仕方がない――。
 古賀によれば、ケガをするまでの「優勝したい」という思いが、「これで優勝できる」に変わったのだという。
「ケガをして、いろんな雑念が吹っ切れたんです。調子がいいと、考えなくてもいいことまであれこれ考えるでしょう。ところがケガをしたことによって、気持ちが勝負だけに集中できるようになった。また、今までの経験から、最悪の状態でも優勝できるだけの戦い方は身につけていたつもりでした。だから、負ける気は全くしなかったですね」
 ハンガリーのベルタラン・ハイトシュとの決勝。赤旗3本がサッと上がった瞬間、古賀は両手の拳を握り締め、宙を見上げて「ハーッ」と叫んだ。同時に大粒の涙が頬をつたった。
 負けて泣かずに勝って泣く――。挫折を力に変えた男の姿が、そこにあった。

二宮氏プロフィール

にのみや・せいじゅん

1960年、愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。五輪、サッカーW杯、メジャーリーグなど国内外で幅広い取材活動を展開。『プロ野球 名人たちの証言』、『広島カープ 最強のベストナイン』など著書多数。

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